女手一つ、乳幼児3人を連れての過酷な引揚げの記録『流れる星は生きている』
私はもうこれが夫を見る最後かと思うと、
とてもこのままさよならがいえなかった。
立ち上がって夫の耳に囁くようにいった。
「ね、生きていてね。どんなことをしても生きていてね」
私は繰り返し繰り返しいった。
電車の中で、涙を堪え、本を閉じて鼻をすすった。
昭和20年8月9日
戦況の悪化から、突然
ここから逃げるようにと、夫に告げられる。
産後1か月の体で、生後1か月の咲子、3歳の正彦、6歳の正広を連れて
貨車に載せられて、夫と離れることになる。
満州から朝鮮を超え日本へと、長く過酷な引揚げが始まる。
本の冒頭で、これだ。
そしてこれは、著者の実話なのだ。
子どもたちは、生き延びられるんだろうか。
この先どうなるんだろう。
ずっとドキドキしながら読み進める。
過酷さは、想像を絶する。
たとえ、身一つでも
そうそう耐えられるものではない。
狭く寒い家で団体での共同生活がはじまる。
1日20円稼がねば、全員が倒れてしまうような中
必死で働きお金を得て、市場の野菜くずを拾い
なんとか、子どもたちと生きていくためにもがく。
子どもの下痢や、なき声に嫌味を言われ
空腹の子どもたちにも、自分にも十分な食事など
食べさせることはできない。
とうとう引き揚げのために移動することになれば
もう、極貧の中での生活といったものですらなくなる。
子どもを3人つれて
足の裏に石をめり込ませながら
裸足で山を越え、大きな川を越え。
読んでいても生きた心地がしない。
まるでじわりじわりと死に向かって進んでいるよう。
どうやってこれで生きていけるというのか。
読後に、ていさんが当時27歳であったと知っておどろいた。
「子どもたちと生きて日本に帰る」
その思いが、ていさんをこれほどにまで強くしたのだろうか。
戦争だけが悲惨だったのではない。
これは戦後1年の間に起こった事実。
そして、これはこの著者だけの苦しみでなく
このように苦しむ人が、戦地に、満州に、シベリアにたくさんいたのだ。
いつか、この平和が突然終わって
こんなことになったら
私は子どもたちと生きていくことができるんだろうか。
どうかこの先、この国で戦争が起こらないように
世界中の戦争がなくなりますように
と願うばかりである。